重水素低減水を摂取した患者群では、73%の患者が遠隔転移の出現後2年間生存し、25%が5年生存した。
 
腫瘍タイプによる効果の違い
 
  生存例
  乳房の腫瘍
肺の腫瘍
前立腺の腫瘍
卵巣の腫瘍
舌および囲口部の腫瘍
悪性黒色腫
骨髄の悪性腫瘍
神経上皮腫
神経線維腫
腫瘍の部位が未分類
 
  死亡例
 
  中止例
  肺の腫瘍
子宮頸部の腫瘍
星状細胞腫
 
 
 ◆生存例
 
 ■乳房の腫瘍
  7.女性患者(48) 1995年8月28日重水素低減水摂取開始
侵襲性の小葉がんのため、腋窩切開により左乳房の部分摘出が行われた。術後、患者は放射線治療を受けたが、化学療法は受け入れなかった。1990年に再発部位を左胸から除去し、放射線治療を続けた。1995年8月には、胸部全体に手術不能の広範囲な再発が確認された。それからCMF療法を行い、後から並行して細胞増殖抑制治療を開始した。1995年8月には重水素低減水の摂取も開始した。それに続き、50%以上の後退が起こった。化学療法が終わった後も後退は続いた。1995年8月以来重水素低減水を飲み続けた患者は、病訴から解放され、仕事に復帰した。
 
  8.女性患者(37) 1996年2月26日重水素低減水摂取開始
患者は1993年に乳腫瘍の手術を受け、その後放射線治療を受けた。1995年に行われた骨シンチグラフィによって転移が確認された。そのため化学療法を開始し、1996年10月まで続けられた。細胞増殖抑制治療のため、1996年2月から8月の間は重水素低減水の消費が不規則になった。しかし、何度かの治療中断を経て、1998年8月以来彼女は規則的に飲水を行うようになった。1996年8月から10月までの期間に、患者の体重は3kg増加し、補助なしで歩けるようになった。彼女はそれ以来活動的で、疼痛もなかった。1998年の調整によれば、プロセスは統合されている。つまり、骨に重大なカルシウム沈着が確認されたのである。また、股関節部の絞窄感も緩和した。患者は肉体的ストレス(水泳、登山)に耐え、全般的に良好な状態にある。
 
  9.女性患者(48) 1996年11月19日重水素低減水摂取開始
臨床病期T2N0M0であったため、患者には右乳房の切除の病歴があった。患者は手術の間、放射線‐化学療法を受けていた。1996年8月に胸膜と肺に転移が確認された。MMM(methotrexate, mitomycin C, mitoxantrone)の用法に従って、細胞増殖抑制治療を開始し、重水素低減水治療を開始するまでに4連続投与された。しかし、検査では腫瘍のサイズに変化は見られなかった。この時期に患者は重水素低減水の摂取を開始した。1997年1月、肺転移のサイズがかなり縮小し、患者の体重は増加した。1997年3月のCTスキャンによると、肺に大きな後退が起きていることが分かった。1997年8月には、完全な後退が報告され、MMM治療は終了した。1997年秋、患者は海外旅行へ行くことが可能となり、国外で治療を受けた。10月のX線検査ではさらに進歩が見られ、残存する腫瘍は胸膜のみとなった。1997年2月の検査では、変化は見られなかった。1998年7月に胸膜の転移に進行が見られた。1998年8月にTaxotere治療が開始され、11月に終了した。
 
 ■肺の腫瘍
  10.女性患者(54) 1997年3月18日重水素低減水摂取開始
患者は1983年に最初の手術を受け、その時にリンパ節に至っていることが確認された。1992年、てんかん発作を起こした後に、脳への転移が明らかになった。手術後、患者は化学療法と放射線治療を受けた。1996年8月、肺に転移が現れた。1997年3月のCTスキャンでは、肺の他に肝臓、副腎にも同様に転移していることが分かった。重水素低減水の摂取を開始してから5ヶ月後の1997年8月に、肝臓の転移は停滞し、10月には後退が見られた。さらに1998年7月には腫瘍の完全後退が確認された。10月に行われた腹部の超音波検査では、肝臓と副腎の両方に関して正常という結果が得られた。1997年末近くに悪化していることが明らかになり、患者は細胞増殖抑制治療に続いて放射線治療を受けた。1998年4月、患者は病訴もなく、肉体的に良好な状態であった。夏の間、彼女は相当な量の白いゼリー状の分泌物を吐き出した。これは肺に腫瘍をもつ患者が、重水素低減水を摂取する場合に起こる現象である。
 
  12.男性患者(72) 1993年12月5日重水素低減水摂取開始
患者は衰弱しており、X線および内視鏡検査によって肺の左上葉の動脈壁付近に比較的小さな(1cm)腫瘍があることが確認された。重水素低減水摂取後1ヶ月で腫瘍の成長は最低限に留まり、1月には成長は見られなくなった。その後、患者はベッドから起き上がれるようになり、さらに数時間歩ける程度に肉体的回復を見せた。患者は1995年8月まで連続的に重水素低減水を飲み続けた。その後も1996年4月と10月、および1997年10月に治療を反復した。1996年4月の報告書では、腫瘍は被嚢している。患者は血友病を患っていたため、従来の治療を受けることができなかった。4年前に医師が余命数週間と予測したにもかかわらず、1997年10月の情報では、患者の状態は安定しているという。
 
  14.女性患者(54) 1994年2月15日重水素低減水摂取開始
1994年1月、患者は肺の腺がんと診断された。1ヶ月後、彼女は重水素低減水を飲み始め、1995年10月まで20ヶ月間連続して飲水し続けた。この間に進行は起きず、握りこぶし大であった腫瘍は1995年7月には縮小していることが確認された。重水素低減水の飲水を止めた時点、患者は全体的に良い状態にあった。肺腺がんと診断されてから4年半後の1998年9月の情報によると、彼女は活発になり社会復帰しているという。重水素低減水摂取後、腫瘍は数年間にわたって停滞している。
 
  17.女性患者(75) 1995年4月18日重水素低減水摂取開始
患者は腺がんのため、1993年8月に手術を受けた。腫瘍は胸膜壁の尖部に付着していた。Centre of segmentVにある腫瘍のサイズはクルミ大でであり、これと肺門リンパ節が葉切断術によって取り除かれた。患者のCa 19-9腫瘍マーカー値は1994年末から増加している。
 
1994年11月
54.8 ng/ml
1995年1月
54.3 ng/ml
1995年2月
74.9 ng/ml
重水素低減水摂取後3ヶ月で患者の体重は5kg減少し、腫瘍マーカーはさらに増加した。
1995年7月
86.1 ng/ml
重水素低減水の用量を増やした後、1995年12月から腫瘍マーカー値は次のように変化した。
1995年12月
60.8 ng/ml
1996年3月
45.4 ng/ml
1996年10月
39.4 ng/ml
1997年1月
29.6 ng/ml
1997年7月
23.5 ng/ml
1998年1月
20.2 ng/ml
 

患者は重水素低減水を5年間摂取している。患者は術後6年経つ現在も肉体的に良い状態を保ち、病訴はない。

 
  18.男性患者(69) 1995年10月10日重水素低減水摂取開始
1994年7月に左肺動脈の新形成が確認され(扁平細胞)、診査によって手術不能であることが分かった。腫瘍は心膜に侵入し、主要な動脈に絡み付いていた。腫瘍の大きさと位置により、従来の治療は行うことができなかった。したがって、患者に残された治療は重水素低減水だけであった。重水素低減水治療開始6ヶ月後の1996年4月までに、患者は健康状態の改善を報告した。赤血球沈降速度(ESR)は80から6に下降し、腫瘍サイズは停滞した。糖尿病でもある患者の血糖値は低下し、呼吸困難に陥ることも少なくなった。また、左肺に蓄積されていた残留物も一層され、患者は医師としての仕事に復帰することができるようになった。1997年秋、患者は海外旅行を満喫した。彼の状態は、腫瘍の緩やかな成長が観察された1998年6月まで安定していた。1998年7月に患者は心筋梗塞を起こし、就寝中に呼吸困難に陥った。心臓の病訴は投薬によって安定し、心臓発作の後1999年1月まで重水素低減水の摂取を中止したにもかかわらず、腫瘍の成長は最低限に留まった。1999年6月、患者は休息中に呼吸困難を起こさなくなったが、X線によって中程度の進行が示された。彼は現在まで4年間重水素低減水を摂取し続けており、その間で中断したのは一度だけであった。また、患者は定期的に一定量の分泌物を吐き出していた。
 
    注:肺がんの頻発に関して、我々はいくつかのケースを挙げてきた。全てのタイプの肺がんでよい結果を示すことができることが上記からも明らかである。統計的に示すと、60~70%のケースで重水素低減水摂取後に客観的な反応が見られた。生存率は有意に増加し、腫瘍は数年間休止状態に入る。手術後の寛解において、重水素低減水が再発を妨げていることが、75歳の患者のケースによく反映されている。このことは恐らく腫瘍マーカー値によっても示されるだろう。90ppmの代わりに75~85ppmの重水素低減水で治療を開始することにより、結果を大幅に向上させることができる。これは腫瘍サイズが大きい(4~5cm)ケースで特に顕著である。
 
 ■前立腺の腫瘍
  22.男性患者(65) 1992年10月30日重水素低減水摂取開始
患者は1992年10月に手術不能な前立腺腫瘍と診断された。重水素低減水治療開始後、彼は排尿の問題に改善があったと報告した。また、前立腺特異抗原(PSA)値はFugerel療法を開始する前に、すでに減少していた。1ヶ月後、腫瘍は触知できなくなり、手術が可能になったが、患者は手術を拒絶した。患者は1年間の重水素低減水の摂取を続け、その後7年間病訴から解放されている。
 
  23.男性患者(66) 1994年12月1日重水素低減水摂取開始
1994年9月、前立腺腫瘍は完全閉塞とリンパ腺への転移を引き起こしていた。10月のPSA値は83.4 ng/mlであった。重水素低減水の摂取に続き、短期間で排尿の問題がなくなった。重水素低減水治療の開始の2週間後、血液サンプルはPSA値0.99 ng/mlを示した。しかし、その値は間違っていると思われたため、2週間後に再検査を行ったところ、値は0.6 ng/mlを示した。この値は1995年3月までに0.23 ng/mlまで減少した。1996年7月と1997年1月の測定値は、検知不能であった。患者は初め重水素低減水の摂取を9ヶ月間続け、1996年に2~3ヶ月間治療を再開した。
 
  注:前立腺腫瘍の場合、PSA値の測定によって潜在的な患者を特定できるという点が重要である。現在までの我々の結果に基づくと、このタイプの腫瘍の場合、早い段階で疾病の診断ができれば、薬物治療を必要とせずに重水素低減水の適用のみで大きな効果を得ることができる。PSA値が50~60を超える男性を検査し、がん患者を重水素低減水で治療することには大きな経済上の意味がある。今ならば安価な試験(数千フォリント/試験)であるが、それに続いて非常に高額な治療費(1患者当たり年間約60~70万フォリント)が発生するのである。しかも多くの場合、患者は一生を通じて払い続けることになる。アメリカでさえも全ての前立腺腫瘍の男性に、約1000億ドルもかけて予防治療を施すことはできない。重水素低減水の適用は、全ての人へ安価な治療を提供できるのである。
 
 ■卵巣の腫瘍
  25.女性患者(52) 1996年4月4日重水素低減水摂取開始
患者は1995年の夏に卵巣腫瘍と診断された。この腫瘍は組織学的に腺がんと識別されるものであると確認された。また、子宮と網も侵されていた。手術後、患者は細胞増殖抑制治療(Carboplatin, Cysplatin)を1996年3月の終了までに8連続で受けた。彼女は従来の治療を終えた後に重水素低減水を摂取し始め、40ヶ月間連続的に飲水し続けた。その後、彼女は症状もなく、活発な状態にある。
 
  注:卵巣腫瘍の予後が良くないことはよく知られている。しかし、我々の研究によれば、卵巣腫瘍も重水素減少によって治療を行うことができる。強調しておきたい点は、我々の現在の知識に基づいた予後と重水素低減水の効力の間には、厳密な相互関連はないということである。これは従来の観点では見込みがないと思われた腫瘍が、重水素減少治療にはよく反応するかもしれないということを意味する。卵巣の腫瘍の場合、数年間寛解傾向にあっても、患者が重水素低減水の摂取を止めてしまうと再発が起こってしまうケースが数例あったという点を強調しておきたい。
 
 ■舌および囲口部の腫瘍
  28.女性患者(63) 1993年7月13日重水素低減水摂取開始
患者は口腔内の新たな腫瘍のため、1993年6月までに3度の手術を受けていた。その後患者は顎の部分除去への同意を拒絶し、放射線治療を最大限に受けた。またそれと同時に重水素低減水を飲み始めた。1993年8月までに舌下の創傷は治癒し、頤の腫瘍は軟質化した。また、9月までに頸部の腫瘍は消失した。1994年、1995年、1996年、1997年の始めの9ヶ月間は、医学的観点では何も起きなかった。その後、アンズの種によってできた創傷が治癒しなかった。そのため、患者は1997年11月に2度の細胞増殖抑制治療を受けた。3回目は創傷が完全に治癒したため行われなかった。患者は肉体的に良い状態を持続し、6年にわたって重水素低減水を摂取していた。
 
 ■悪性黒色腫
  29.男性患者(51) 1994年11月17日重水素低減水摂取開始
1994年7月、患者はクラークレベルV黒色腫を切除した。腫瘍は左側腹部の母斑から始まり、同年8月には左腋窩の切開が行われた。これに続いて、患者はダカルバジン(dacarbazine, DTIC)とインターフェロン(Interferon)治療を受けた。患者は上記の日より規則的に重水素低減水を摂取し、1995年、1996年、および1997年は症状が現れなかった。この期間中の1996年5月に、手術が一度行われた。1年半の間腋窩にあったリンパ節を切除するものであったが、成長は全く見られなかった。除去した節を顕微鏡下で調べた記録は次の通りである。「・・・塊は周囲組織から形成された腫瘍組織によって占められていた。・・・頻繁な分裂による形成。腫瘍塊の壊死。腫瘍は太い線維に囲まれ、切除による脂肪組織への腫瘍の伸展は示されなかった。」 長期間の無症状に関連して、重水素低減水の摂取開始後3年以上を経た1998年初頭から飲水を休止した。重水素低減水の摂取を中止してから1ヶ月半後、患者の胸部に瘤が現れた。その後、彼は重水素低減水を再び摂取することなく、1999年3月に死亡した。
 
  30.男性患者(46) 1994年12月20日重水素低減水摂取開始
患者は悪性腫瘍のため、手術を受けた。その後の1992年4月、腋窩よりリンパ節を切除され、1994年春にDTIC治療が行われた。秋までに耳の後ろと肝臓に転移が現れ、続いてイントロンA(Intron A)治療が行われた。重水素低減水の摂取開始1ヶ月後のCTスキャンによると、初期の肝転移の2つが確認できなくなっていた。また、2つは縮小し、1つは変化のないままであった。さらなる診察(1996年3月、7月、12月、1998年2月、12月)によって、肝転移の段階的な後退が明らかになった。1999年4月のCTスキャンの結果は次の通りであった。「前に見られた小さな残存病巣は検知できなかった。限局性の構造体はCTスキャンでは確認できなかった。」患者は肝転移の確認以来5年間、活発に過ごしており、仕事もこなしている。
 
    注:上記には2つの成功例を挙げたが、黒色腫のようなタイプの腫瘍は反応が鈍く、治療は非常に難しい。毎週新しい転移が発生するようなケースでは、我々は全く成功を収めることができなかった。この観察記録は、アメリカの研究所で行われた試験管内での実験に沿っている。それによれば、前立腺や乳房細胞株の抑制は24~48時間続くのに対し、黒色腫細胞株は低重水素量の培地に6時間以内で適応してしまう。したがって、このタイプの腫瘍の場合、用量を増やさなければならない。つまり、通常より短時間で体内の重水素レベルを減少させるのである。
 
 ■骨髄の悪性腫瘍
  31.男性患者(26): 急性骨髄性白血病(AML) 1995年1月10日重水素低減水摂取開始
1992年9月発熱に続き、リンパ節の肥大が報告された。患者は組織学的な診断によりホジキンリンパ腫(Hodgkin Lymphoma)と診断され、1994年2月にABVD(adriamycin, bleomysin, vinblastine, dacarbazine)による治療を受け、さらにCOPP(cyclophosphamide, Oncovin, procarbazine, prednisolone)治療を受けた。1994年6月に、検査によってAMLのM4型(骨髄単球性白血病)であることが確認された。3度の治療を経て、1994年10月に患者は化学療法を拒絶した。1995年1月3日と10日の血球算定により、末梢で幼若芽球様細胞(blastoid cell)の数が増加していることが分かった。患者は1995年1月10日に重水素低減水の摂取を開始し、1月31日の血球算定では幼若芽球様細胞の存在は確認されなかった。患者は1997年3月まで定期的に重水素低減水を飲水していた。この間に行われた検査は全て陰性であった。1998年1月から数ヶ月間、彼は予防手段として重水素低減水を引水した。彼の検査結果は4年以上の間陰性であった。
 
  32.男性患者(62): 慢性リンパ性白血病(CLL) 1996年1月16日重水素低減水摂取開始
患者はB細胞性のCLLと診断された。1995年末から白血球数の増加、貧血、血小板減少が起き、患者は赤血球と血小板の濃縮治療を受けた。CTスキャンによれば、両肺尖に線維束の残存が確認され、同様に1.5~2cmのリンパ節が縦隔内に見られた。肝臓と脾臓はかなり肥大しており、腸間膜には部分的にリンパ節が誘導されていた。従来の治療を受けているにもかかわらず、疾病は進行した。患者は衰弱のためほとんど寝たきりの状態にあり、体重も連続的に減少した(69kg)。1996年1月に彼は重水素低減水を飲み始めた。その2ヶ月後には輸血回数が減り、その後の血球算出の結果では輸血の必要がなくなったことが明らかになった。彼は抵抗力を取り戻し、4ヶ月後には頸部のリンパ節が触知できなくなった。年末近くに腹部の病訴があり、1997年1月には腹壁に触知可能なリンパ節肥大が確認されたが、手術によって切除された。さらに1998年春には、腋窩に腫脹が見つかった。患者は3ヶ月間重水素低減水を摂取し続けた。1年後の1999年5月、患者の体重は80kgになり、触知可能な腹部リンパ節はなくなった。患者は肉体的に良好な状態にある。
 
 ■神経上皮腫
  35.男性患者(45) 1995年4月25日重水素低減水摂取開始
1994年11月、患者の背中に激しい疼痛が現れた。L. U-X. compr.骨折は確認されたが、初期腫瘍の原因は特定できなかった。1995年3月のCTスキャンではL. W椎骨に最も大きな進行が認められた。また、以前の検査時に比べて椎骨本体は0.5cm狭まっていた。軟組織密集の過程で、椎骨付近が破壊され、proc.transversus右側は脊柱管の方へ広がっていた。生検によって神経上皮腫と確認された。範囲と位置が悪く、腫瘍の手術は不可能であった。重水素低減水の摂取前、患者は寝たきりの状態であった。彼の疼痛は治療開始後6~7日で多少増加したが、3週間後にはモルヒネの投与は必要なくなり、患者は起き上がれるようになった。そして3ヶ月後には、患者は杖を使わずに自力で歩行できるようになり、車の運転も可能になった。彼は1995年8月まで重水素低減水を摂取していた。その後、患者に関する情報は得られなかった。
 
 ■神経線維腫
  38.女性患者(12) 1996年8月6日重水素低減水摂取開始
少女は神経線維腫症が引き起こすopticus gliomaの治療を受けていた。また、両目に黒内障を発症していた。1994年8月に、聴覚、顔面神経、動眼神経、外転神経の不全麻痺および右半身の麻痺を伴う中枢神経の障害が起こった。カルボプラチン(carboplatin)/VP-16化学療法が行われ、MRIで効果を評価した。MRIによると、大幅な腫脹が起こっており、進行が確認された。この後、患者は従来の治療を受けなかった。少女は1996年1月に初めてVitaquaと呼ばれる130ppmの重水素低減水を摂取し始めた。その後、8月からは85ppmの重水素低減水を飲水した。1996年11月のMRIでは、腫瘍のサイズとコントラストは大幅に減少しており、腫瘍の後退が確認された。重水素低減水の摂取を始めて以来、少女の話す能力と動く能力は連続的に改善された。1997年1月、彼女は自力で歩行できるようになった。1996年11月とは対照的に、1997年8月腫瘍のサイズは半分の大きさになっていた。1998年12月のMRIでは、進行は全く見られなかった。現在では、少女は2年以上通学を続けている。
 
 ■腫瘍の部位が未分類
  2.女性患者(39) 1993年8月23日重水素低減水摂取開始
1991年10月の手術に続き、患者はCMF療法‐放射線治療‐CMF療法を受けた。1993年7月に右腋窩の切除が行われた。彼女は重水素低減水を1993年8月から11月まで摂取していた。1994年秋に、患者が物が二重に見えると訴えたためCTスキャンを行ったところ、側頭部に異常が見られた。1994年11月から、重水素低減水の摂取が不規則になり、推奨する用量を飲水しなくなった。1995年春に、縦隔内と肺への疾患が確認された。1995年3月から9月まで飲水を行い、その後中断して1996年10月に再開した。病状も停滞、進行、改善と同様に反映された。この患者は、5年前に脳と肺への転移が見つかったにもかかわらず、現在(1999年5月)も生存している。
 
  4.女性患者(39) 1994年9月3日重水素低減水摂取開始
患者は1986年に手術を受け、1年前から存在していたクルミ大の腫瘍を切除した。最初の再発は1987年に確認された。1993年9月に骨転移の疑いが生じ、1994年3月に転移が確認された。従来の治療を受けているにもかかわらず、病状は進行していた。重水素低減水の摂取を始める直前の、患者に関する最後の報告書は次の通りであった。患者は激しい疼痛のため、モルヒネの投与を受けていた。治療を始めて数週間後、彼女は鎮痛剤を必要としなくなった。10月には鼻の下にあった腫瘍が、平坦化し縮小していった。11月のX線検査で、肺転移の後退が確認された。1995年3月の骨シンチグラフィでも、同様に後退が見られた。1996年1月の検査では、肺は完全に回復していており、骨においてもさらなる後退があった。頭皮下の転移は、1996年11月から進行が始まった。1997年1月、肺がきれいになったことにより、患者の疼痛はなくなった。彼女は1998年の春まで重水素低減水を飲水し、1998年11月までの半年間飲水を中断した。その後の骨シンチグラフィでは、数箇所に小さな転移が確認されただけであった。患者は重水素低減水治療を開始して以来、5年間疼痛から解放されており、生活状況は良い。
 
  6.女性患者(42) 1995年5月18日重水素低減水摂取開始
1993年4月の脳手術に続き、患者は放射線治療を受けた。1995年3月、椎骨と胸骨への骨転移と同様に局部的な再発が確認された。2ヶ月後に患者は重水素低減水を摂取開始し、42ヶ月間飲み続けた。1995年11月の骨シンチグラフィでは、進行は見られなかったが、疼痛は沈静化し、病状は全体的に改善された。1996年は良い健康状態のまま経過した。1997年1月肺水腫が発生したが、時折仙骨に疼痛が起こることは別として、患者の状態は良かった。1997年10月に行われたX線スキャンにより肺への障害が疑われたが、以前に確認された卵巣嚢腫は見られなかった。1998年1月患者は咳き込み、肺への転移が確認された。その後、患者は細胞増殖抑制治療を開始した。
 
 ◆死亡例
 
 
1.女性患者(46) 1993年12月7日重水素低減水摂取開始
1998年に乳がんの診断を受け、1992年9月に骨転移が初めて確認された。患者が重水素低減水を飲み始めるまで病状は進行しており、疼痛と障害の度合は増していた。重水素低減水の摂取に続いて、疼痛は1~1.5ヶ月で沈静化していき、2ヶ月後の骨シンチグラフィ(bone scintigraphy)では当初見られたいくつかの小転移が確認できなかった。患者は1994年1月まで重水素低減水を飲水し、生活の向上を示した。その後、彼女は重水素低減水の摂取を止めた。4ヶ月後、患者は悪化し、疼痛も再び現れた。1994年9月の骨シンチグラフィでは、中等度の転移が確認された。この後に患者は治療を再開することを決めた。1995年10月の骨シンチグラフィでは、さらなる転移は確認されなかった。しかし、病気は緩やかに進行し、飲水後の最初の3年間には大きな改善は見られなかった。1996年12月、患者は転移が原因で上腕に病的骨折を起こし、大腿は外科的に補強された。上腕骨が回復した1997年の夏に、患者は減少していた体重を10kg取り戻し、疼痛も薬物で制御できるようになった。治療開始後4年間で、軟部組織に転移が起こらなくなった。1997年10月のCTスキャンで、脳への転移が明らかになった。患者は骨転移が現れてから5年半後に死亡し、内4年半は重水素低減水を摂取し続けていた。
 
3.女性患者(72) 1994年11月3日重水素低減水摂取開始
患者は1985年に胸部手術を経験している。1993年末に、脳、肝臓、骨への転移が確認された。彼女は重水素低減水を、上記の日から1996年5月に死亡するまで摂取していた。余命2~3ヶ月という予測に反し、彼女は安定した良い状態で26ヶ月間生存した。
 
5.女性患者(56) 1995年10月1日重水素低減水摂取開始
1990年8月、患者は組織学的に浸潤性の乳がんと診断され、乳房の切除手術を受けた。手術後、患者は放射線治療を受けた。1992年、左乳房にも転移が発生した。重水素低減水の摂取前に、肋骨とL. U-V-W椎骨に転移が確認された。患者は背中に激しい疼痛を訴えていた。重水素低減水治療を始めて3ヵ月後、彼女の苦痛は和らぎ、病状は改善された。1995年7月の血球数検査ではかなり良い値を示し、ESR値(erythrocyte sedimentationrate)は以前の60から26へ減少し、膿尿は見られなかった。10月には更に改善し、体重も増加した。1996年2月にインフルエンザに感染し、回復が長期間遅延した。8月の検査で、脳への転移が見つかった。重水素低減水と従来の治療により、1997年7月に患者が死亡するまで改善と悪化が断続的に続いた。重水素低減水の摂取後には確実な改善が見られ、骨転移が現れてから30ヶ月、脳転移の診断後10ヶ月生存した。
 
13.男性患者(47) 1994年10月1日重水素低減水摂取開始
患者は手術不能な器官上皮の肺がんのため、1993年5月から治療を続けていた。重水素低減水治療を開始するまでに、患者は15kgも体重を失っていた。腫瘍サイズは停滞し、その後少しずつ後退していたが、1993年11月の検査では進行が確認された。そのため、1994年1月からプロトコルの変更が行われた。患者は治療によく耐え、腫瘍の停滞と時折起こっていた無気肺の減少に至った(1994年8月)。彼は1994年9月に最後の治療を受けた。つまり、1994年11月の時点では最後の細胞増殖抑制治療を受けて3ヶ月が経過しており、重水素低減水摂取が唯一の治療となっていたのである。このときの診察で、「大幅な後退」が確認され、その状態が1995年3月まで続いていた。1996年1月に再び進行が確認され、患者は病気が診断されてから3年半後の1996年10月に死亡した。彼は重水素低減水の摂取を連続的に行っていた。
 
15.女性患者(46) 1994年9月29日重水素低減水摂取開始
1994年3月、患者に4×5cmと8cmの腫瘍が発見され、組織学的に混成タイプ(扁平細胞 + 未分化腺がん)の腫瘍であると診断された。重水素低減水治療の開始は、プロトコルの変更とともに行われた。2週間後、腫瘍体積は50%減少し、2つの治療の相乗効果であるとみなすことができた。1995年2月に細胞増殖抑制治療が終了した。3月までに患者は窒息を感じなくなり、全体的に良好な状態となった。また、7月までに彼女の体重は12~14kg増加した。しかし、8月に再び進行が確認され、診断の2年後の1996年3月に患者は死亡した。
 
16.女性患者(61) 1994年11月29日重水素低減水摂取開始
1994年9月に患者は小型細胞肺がんと診断され、10月に細胞増殖抑制治療を開始した。患者への反応は良かったが、重い副作用に耐えることは難しかった。彼女は重水素低減水を1994年11月から1995年10月まで連続的に摂取し、肉体的状態は向上した。この後患者は現れなくなったが、患者が治療を受けていた病院から彼女が死亡したことを知らされた。患者は診断の2年後の1996年3月に死亡したとのことである。
 
19.女性患者(55) 1993年11月3日重水素低減水摂取開始
1993年10月の超音波検査で、直腸腫瘍由来の5つの肝転移が確認された。患者は肝臓域に激しい疼痛を訴えたが、重水素低減水の摂取後数日以内で収まった。1994年2月、患者は重水素低減水を1週間摂取しなかった。彼の疼痛は再発したが、重水素低減水の摂取を再開後に止まった。患者の状態は安定し、1994年と1995年初頭は活発に過ごした。彼女は1995年3月に重水素低減水の摂取を止め、肝転移の確認後21ヶ月を経た1995年7月に死亡した。
 
20.男性患者(65) 1994年10月10日重水素低減水摂取開始
1994年9月に結腸腫瘍に由来する3~6cmの多発性転移が肝臓に確認された。次の腫瘍マーカー値は重水素低減水の摂取開始直前(1994年10月6日)、摂取4ヶ月後(1995年2月20日)に測定されたものである。
 
CEA(carcinoembryonic antigen癌胎児性抗原)
959 ng/ml
189.7 ng/ml
CA-50(carcinoma 50腫瘍マーカー)
998 U/ml
195.8 U/ml
Ca-242
3069 U/ml
324.6 U/ml
  患者は1996年7月まで重水素低減水の摂取をづつけた。患者は1994年9月に診断されてから22ヶ月生存した。
 
21.男性患者(58) 1995年2月7日重水素低減水摂取開始
1995年2月、患者は手術によって結腸を60cm切除した。肝臓に5~6個の転移が発見され、その1つはリンゴ大であった。患者は5-フルオロウラシル(5FU) + ロイコボリン(Leukovorin)を投与された。重水素低減水摂取1ヶ月後の3月の検査では、2つの腎臓の嚢腫が検知されず、5月までに患者の体重は6kg増加した。10月のCTと超音波検査では停滞と肝臓に石灰化点が確認された。1996年8月のCTスキャンでも停滞が確認されたが、患者は10月より体調の悪化に続いて、時折下痢を起こした。患者は疾患と肝転移の診断後、27ヶ月が経過した1997年5月に死亡した。
注:この腫瘍タイプでは、遠隔転移のケースで生存を大幅に増進すること「のみ」に成功している。この腫瘍タイプは、重水素低減水に対する反応が非常に遅い。そして、90ppmの重水素低減水は、肝臓の大きな転移を除去するのに十分な低さの重水素量ではない。患者が直腸-結腸手術後、1~1.5年間連続的に重水素低減水を摂取すれば、遠隔転移の発生を妨げることができると考えられる。この腫瘍タイプおよび遠隔転移の存在下では、重水素量75~62.5ppmの重水素低減水で治療を開始することを勧める。
 
24.女性患者(45) 1992年2月重水素低減水摂取開始
患者は1993年に卵巣腫瘍の手術を受けた。手術後の試験では陰性であった。彼女の食欲は旺盛で、体重は4kg増加した。また、活動が活発で働きにも出ていた。彼女は1993年2月から1994年11月までの間、重水素低減水を連続的に飲水していたが、長期間症状があらわれなかったため、飲水を止めてしまった。1994年12月の検査結果は陰性であったが、2ヶ月後に腹部に病訴が現れた。そのため、1995年2月に再手術が行われた。この後、患者は重水素低減水の摂取を再開した。我々はこれを、細胞学的な結果は陽性であったのにもかかわらず、超音波検査では再び陰性を示すことが原因であると考えた。1996年4月、再発が確認された。最初の再発から3年に近い闘病の末、患者は1997年11月に死亡した。
(この後、我々は卵巣腫瘍の手術を受けた他の患者に、症状が2年以上の長期間現れなくても、重水素低減水の飲水を止めることは勧めないようにした。)
 
27.女性患者(56) 1992年7月12日重水素低減水摂取開始
患者は1年間存在していた舌の腫瘍を除くため、1989年3月に最初の手術を受けた。1990年に腫瘍は後退し始め、患者は治療を繰り返した。1992年末には再発が起こり、患者は重水素低減水の摂取を開始した。その時から腫瘍のサイズは縮小し、1993年3月に行われた生検では、サンプルの中に腫瘍組織は確認されなかった。患者は1993年の間は重水素低減水を飲み続け、1994年1月に中断した。続いて疾病の大幅な進行が確認され、1994年8月に再度手術が必要となった。重水素低減水は、1994年7月より規則的に摂取していた。1997年2月、生検によって再び陽性であることが証明された。重水素低減水の用量を増やすことによって、新たに発生した腫瘍塊のサイズは縮小し、その内容物は軟質化した。さらにに進行したのは1998年の春のみで、この際はX線によって肺に転移が確認された。用量を増加したため、患者は粘性の分泌物を吐き出し、口内の腫瘍は柔らかくなった。また、食道付近の腫瘍のサイズは縮小したが、耳の腫瘍には反応がなかった。患者はそれから1年生存し、1999年の春に死亡した。最初の手術から合計10年が経過していた。重水素低減水を摂取する前の3年間に再発があった。我々は、重水素低減水の連続的な摂取を行えば、このような再発は起こらないのではないかと推察する。次のケースはそれを示すよい例である。
 
33.男性患者(65) 1994年11月1日重水素低減水摂取開始
患者は1994年9月に多発性骨髄腫と診察された。その前の3月に、彼は肋骨を病的骨折していた。重水素低減水の治療を始める2ヶ月前に、細胞増殖抑制治療が行われた。飲水2ヶ月後の1995年1月までに、患者の体重は5kg増加した。3月、電気泳動によって大幅な改善が確認され、さらに2ヶ月後には異常が見られなくなった。そして、患者は7月に一連の治療を受け終えた。1996年9月の電気泳動および血球算定は正常であった。1996年1月の血液レベルは正常であり、骨シンチグラフィでも初期腫脹は確認されなかった。また、9月の診察も陰性であった。1996年10月、患者はHevizで温浴療法を受けたが、治療が終わる頃に不調を訴え、肋骨間には疼痛が見られた。1996年11月に新しい治療を始めた。1997年3月、胸骨に相当な大きさの腫瘍が現れた。腫瘍は5月に後退したが、8月に再び出現した。その一方で、胸椎の間にも転移が発生していた。患者は重水素低減水を連続的に摂取しており、休止したのは数ヶ月間だけであった。重水素低減水治療を続けたため、患者はさらに2年生存し、診断から4年半後に死亡した。
注:重水素低減水は造血に関連する腫瘍遺伝学的疾患の治療に、高い効果をもって使用することができる。重水素低減水の摂取によって従来型治療の効果は増幅し、再発を避けるチャンスが増加する。
 
34.男性患者(66) 1994年11月7日重水素低減水摂取開始
1985年、肝臓の関連組織に由来する悪性腫瘍が発見された。重水素低減水治療を始めるまで、腫瘍を小さくするために数回の手術が行われ、腫瘍への血液供給を遮断するための血管閉鎖も一度行われた。1994年5月、腫瘍突破に起因する胃出血のため、胃切開および胃を腸へ接合する手術が行われた。黄疸と血糖値の降下により、患者は度々意識を失った。1994年10月、過度の肉体的衰弱により患者は入院したが、回復の見込みはほとんどなかった。11月の超音波検査では17×21cmの腫瘍が確認された。重水素低減水の摂取に続き、患者の食欲は増強し、体重が3.5kg増加して歩けるようになった。そして、彼は11月に退院した。研究室での検査により黄疸の減少が確認され、腫瘍に起因していた高い酵素値も下降した。1995年2月、超音波検査によって16×14cmの腫瘍が確認された。重水素低減水の摂取開始から1年後、黄疸はほとんど消え、数年間土色であった便の色が正常に戻ったことから胆汁流量の改善も確認された。重水素低減水を規則的に摂取できなかった11月に、患者の容態の悪化が起こった。1995年11月27日に患者は死亡した。患者の状態の改善は1994年11月から1年間続いたが、この間患者は他の治療を受けていなかったため、この改善は重水素低減水の摂取に帰するものと思われる。
   
37.男性患者(44) 1995年5月12日重水素低減水摂取開始
1995年8月、患者の左側頭頭頂の腫瘍は組織学的に膠芽腫と診断され、手術によって切除された。その後、患者は放射線治療を受けた。手術から半年経った1996年1月、CTスキャンによって、手術域にリング状の付着成長が確認された。1996年4月、患者に造影剤を投与して検査を行ったところ、残存腫瘍の僅かな進行とともに、不均質なコントラストをもつ付着物が観察された。1997年10月にCTスキャンは直径1cmの再発の疑いを示した。1997年4月の時点で側頭頭頂の腫瘍は約3cmであり、膨張性を増していた。1997年は化学療法が行われた。患者は2年生存し、1997年11月に死亡した。
 ◆中止例
 
 ■肺の腫瘍
  11.男性患者(62) 1993年4月21日重水素低減水摂取開始
1992年の診断時、患者は開胸によって手術不能な腫瘍が確認された。診断後、患者は放射線治療を行うと共に、1993年4月から9月までの期間に最初の重水素低減水摂取を行った。この期間は、進行は見られなかった。しかし、飲水後に痛みが5~10分間現れたため、後に患者は重水素低減水治療を止めてしまった。これに続き、患者の体重は1994年3月15日までに15kgも減少した。そのため、主治医のアドバイスの下に、彼は再び重水素低減水の摂取を始めた。2ヶ月で患者の体重は4kg回復し、7月のX線検査では腫瘍のサイズは2年前に観察されたときと同じ大きさに戻っていた。患者の窒息は止まり、再び肉体的に活発な状態になった。1995年1月の検査では、腫瘍の停滞が確認され、6月の気管支鏡検査では腫瘍域の瘢痕化が見られた。その後、患者は肉体的に良い状態が続き、1996年5月のX線検査で後退が確認された。1996年8月、患者は全体的に良い状態であったため、重水素低減水の摂取を止めた。しかし、それに続いて1997年1月に再び悪化し、1999年5月には手術域に疼痛を訴えた。彼は肉体的には活発で、体重も安定していた。診断および診査手術から7年が経過したが、X線像によれば腫瘍は被嚢した状態にある。
 
 ■子宮頸部の腫瘍
  26.女性患者(47) 1993年11月22日重水素低減水摂取開始
患者は1993年11月に手術不能な子宮頚の腫瘍であると診断された。腫瘍は卵巣にも絡み付いていた。患者が重水素低減水を摂取し始めた1994年3月から、彼女の状態は連続的に改善した。患者の体重は増加し、子宮頸部の腫瘍は検知不能になった。7月までに以前見られた腸の狭窄は消え、患者は全体的に良い状態であった。1994年11月より、患者はさらに重水素量を減少させた水を摂取し始めた。1995年2月の診察の結果、大幅な進行が確認された。患者をさらに5ヶ月間追跡調査すると、その間患者は十分な量の重水素低減水を取っておらず、それと同時に彼女の状態はゆっくりと後退した。このケースは、重水素低減水の摂取と腫瘍の動きに関連性があることをよく示している。それと同時に、正しい用量を定め、維持することの重要性もこの症例から明らかである。
 
 ■星状細胞腫
  36.男性患者(29) 星状細胞腫A3 1995年3月28日重水素低減水摂取開始
1991年からのてんかん発作に続き、脳腫瘍の存在が確認された。1995年1月に手術が行われた。患者は44ヶ月間中断することなく重水素低減水を摂取し続けた。当初は頻繁に強い痙攣が見られたが、徐々に減少していった。しかし数ヶ月経つと、数週間痙攣を起こさずに過ごすことができるようになり、発作が起きても軽微なものであった。それから4年後の1999年3月より、100ppmの重水素低減水の代わりに62ppmの水を飲水するようになった。その1ヶ月後に激しい頭痛が現れ、さらに1ヶ月後には病状が急激に悪化した。MRIによって、腫瘍と握りこぶし大の嚢腫が確認された。重水素低減水の用量増加は腫瘍の成長を抑制することができなかったのである。1ヶ月後の手術は成功し、患者はその4日後には退院することができた。 このケースは腫瘍成長の抑制に対する重水素低減水の重要な役割を示すよい例である。この例の場合、42ヶ月間は適切な用量であった。しかし、例え飲水後4年を経ていたとしても、重水素低減水の重水素量の増加もしくは用量の減少を行うべきではない。例の場合、これを行ったために患者は2ヶ月以内に再発してしまったのである。
 
 
 
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